「私の8月6日とその後。身近にあった戦争」です。
みなさん、こんにちは。水の心です。今日は「私の8月6日とその後。身近にある戦争」です。
昨年、自身のブログの中で
を書きましたが、書き終わると同時に、起きた事の周辺を見ておきたいと思っていました。そして、一年かかってしまったのですが、今年、ブログの中にある「一中」(いっちゅう、現:国泰寺高校)に、行く事が出来ました。
実は、私が大学生の頃、父親と一緒に、その国泰寺高校に行き、その8月6日の慰霊碑に、花を供えた事がありました。既に、父は他界しているので、私が一族の後継者として、花を持って行きたかった事もありました。
もう、次行けるかどうかはわからない。これが私が行ける最後になるかもしれないので、念入りに、線香、花、ろうそくを持っていく事にしました。
広島は、戦後奇跡の復興をとげ、多くの商工業が発展し、本社が広島という大企業も多くあります。
そんな中、市内で一番のにぎやかな「本通り(ほんどおり)」という、アーケード商店街の商業ビルの屋上に、お地蔵様が祀ってあるのを見た事があります。学生の時に、イベントで借りたビルの屋上でした。そのオーナーのお爺さんから、被爆の説明を受けた事があります。
繁栄や、豊かさのすぐ後ろには、あの日の記憶が残っています。
そして、学校に到着。
最近は、おかしな事件も多く、学校関係者の方には、少しいぶかしがられながらも、その石碑(追憶の碑と後ろが原爆死没者の碑)に来る事が出来ました。
既に、関連のある方々が、お参りされていて、線香や、花、飾りなどがありました。
<高校の正門入って右側の芝生内にありました>
早速、私は、掃除を開始し、花を活け、線香を焚きます。
こういう時に限って、ろうそくを一本忘れていたりして、アイタタタなのですが、その碑に彫られた生徒達、皆さんに念仏を唱えました。
<追憶の碑と奥が原爆死没者の碑>
<追憶の碑の裏面>
<表、側面、裏面、ギッシリと並ぶ名前>
慰霊を続けるのは大変で、出来ず終いが続いていましたが、昨年ブログで取り上げ、なにか責任の様な思いが生じ、何とか行きたいと思っていました。
そして、生徒達の為に拝めた事が大変うれしく思いました。
一通りお参りしたのち、その周囲を見てみると、昭和天皇(皇太子の時)が、行啓(訪問)されたという大きな碑がありました。
その横に、(当時)皇太子殿下、秩父宮殿下の「御座所」跡の碑。(御座所とは、居室とか、おまし所の意味)
どうも、皇太子時代の昭和天皇が、その昔、一中で行われたサッカーの試合をご覧になったらしく、その時におられた場所が、そこだった、という事の様です。
そして現高校の正面左が、当時の一中の門。
現在の高校の門は南に少しズレている様です。1945年の被爆当時の全景写真がネットにありましたが、見ると、この門は石なので燃えずに残り、上記の皇太子殿下の行啓の石碑も、小さいですが写っていました。
今まで、何気なく前を通っていたのですが、全く注目しておらず、新事実発見も多かったです。
そして、私の身近にあった戦争。
父親から聞いたのが、どうも戦時中、爆弾が近所に落ちた、という事でした。
近所の老人位しか知らない様な事ですが、消えていく記憶をネットの中にだけでも残しておこうと、今回書いておく事にしました。
場所は、こちら。
<対岸の正面のビル~左付近に落下。また右手から中央奥に延びる橋に沿って鉄橋があった>
大体の落下場所。
<電柱のゴチャゴチャから左方向付近に落下したらしい。鉄橋を狙って流されて・・・という感じ?>
この川には陸軍被服支廠倉庫へと延びる引き込み路線の鉄橋が走っていました。
(とっくに廃線となり、鉄橋もかなり前に撤去されています。小学生の頃の私は、その残っていた鉄橋を見た様な憶えがあります)
大した軍事目標が無い町ですが、今考えると、どうもその鉄橋を狙って爆撃したのかも知れません。
当時の記録も無く、硫黄島から来たのか、沖縄から来たのか、はたまた空母から来たのかもわからないのですが、投下した爆弾は推測で、250㌔、500㌔、1トン爆弾。
父の話によれば、落下後、運良く不発。
が、爆風で鼓膜が破れないよう親指で耳の穴をふさぎ、口を開き、目玉も飛び出ないよう残りの指で目を押さえて、伏せて防御態勢をとった、と聞いているので、かなり危険が迫っていた様です。
小学生が対爆防御姿勢とは・・・。今でいうシリアや、パレスチナ自治区在住という感じでしょうか。
また、その近くの特攻帰りのお爺さんがおり、アルバイトで行った町工場で、たまたま一緒に働く事になり、少しだけ話を聞きましたが、軍用ブーツ(編上靴、半長靴)の中で、靴下がよれたまま行軍すると、すぐマメが出来て足がダメになるヨ、と言われたのが記憶にあります。
そして、この空色の鉄の橋。(手前は細い歩道橋があります)
その不発弾騒ぎの場所から、あまり離れていない、町を2分する河にかかるこの橋。現在ほとんど車専用道路ですが、その昔は、人、自転車、自動車混在の橋でした。
そして、かなり前の新聞記事に、この橋が、どうも空襲に遭った建物の鋼材を使っている、と書かれていました。20年以上は前の記事です。
早速、今回私も行ってみる事にしました。
「あったあった!」
記事の中には、弾痕も残っているとの事で、これが「そうだ」とは、わからないのですが、いびつに空いた穴があります。
建築用に規則的に開いてない穴は、ザッと見ても、かなりありそうでした。
調べると、山口県光市にあった海軍工廠(工場)が、米軍の爆撃によって破壊され、戦後の物資不足から、その廃材を使って昭和25年に作られたのだそうです。(奇しくも2016年8月13日放送のTBS「報道特集」の中で、8月15日終戦直前の米軍「フィナーレ爆撃」で光海軍工廠の爆撃が取り上げられていました)
今の時代にそぐわない、小さな橋で、車の離合が怖い橋なのですが、戦争遺構の転用例として、これからも長くあって欲しいと思います。
今年5月27日、広島にオバマ現職大統領が、やってきました。
米大統領の来広を、71年前に誰が考えただろうか?
一説によると、2009年プラハでのノーベル平和賞を受賞した演説と、対を為す出来事にしたかった可能性がある、と分析されていました。
だが冷めた目で見ると、任期の少なくなった大統領は、結果の出せなかった米国内の政策より、すぐに結果の出る海外の外交成果を残したかった、という意見もあります。
観音町のヘリポートから平和公園まで完全通行止めの後、大統領専用車で突っ走り、大急ぎで原爆資料館で資料を見、そして慰霊碑の前で演説。
(オバマ氏の表情、厳重な警備、同盟友好国とは言えない、固い空気が流れている様な気がしました)
ですが、やはり驚くべき事だと思います。
オバマ大統領が立った場所、足元。
その場所は、焼け野原になる前は、町が存在し、多くの人が生活をして、その日・・・。
公園の形で、憩いの場に見えますが、そこは大きなお墓です。
今回のオバマ氏は来ましたが、次の大統領は、来広しないかもしれない。
が、全く選択肢が無いというわけでは無くなった。
それは国内外、今もいろいろ多くの意見があるし、くすぶっている。
だが、それが間違っていた事。そして今後それを使用しない事。
それは、確実に広がっている。
「これが始まりになったんだぜ?」
やっとスタート地点に立った、と思います。
そして今回、クローズアップされたのが、日本原水爆被害者団体協議会の坪井直氏と、民間歴史家の森重昭氏です。
坪井氏のオバマ大統領に対する態度は、非常に立派なものに見えました。
いろいろな思いがある、あの国の現職大統領と、落ち着いて「笑顔で」対等に話をする。歴史上、一人の方の人生上、起きた出来事としては本当に奇跡であるし、多くの人々の代表として、堂々と会われた事は、私は誇りに思います。
そして、戦後1983年まで米国は、強行した原爆投下が批判にさらされる事を憂慮し、自国の捕虜兵士達の被爆死を、遺族に伝えず、公表もしなかった。
そんな被爆死した敵国兵士の為に、尽力し、遺族を探し出し報告をした、森重昭氏。
この方も、驚く様な大きな心で、恩讐を超え、良心に従い、その仕事をなされた。今回、それが多くの人に認められ、森氏は、オバマ氏にねぎらわれる様に抱擁された。
これも、また奇跡です。
敗戦後、日本の軍組織は解体したので、自分の足で捕虜の墜落現場から、捕虜の足跡を集め、総当たりで一人一人の在米遺族に電話をかけていく。
当然、米軍、米退役軍人省など、政府機関は知らない事になっているので、全てが手探り。この途方もない道のりを進む力は、本当に驚くべきものがあります。
米軍捕虜が拘留されていた、中国憲兵隊司令部跡地に建てられた商業ビルの壁に掲げられている、森氏が作られた銅製記念碑。
広島中心部の東西を走る、路面電車の北側のビルの真裏にありました。
「そういう歴史があったんだ」
「そうなんだ」と多くの人に知ってもらう。
全く知らず、興味もわかず、記憶も、意味も、何もかも、失っていく。
それは、とてももったいない事です。過去を知らない者は、未来を知る事は無い。
誰かが、憶えていれば、その時生きていた人も、生き続けることが出来る。
それが、私達の勤めなのかな?と思います。
戦後71年目にして、アジアがキナ臭い。
割と右寄りな私でも、国内外、政権与党の動きにイヤ~な感じがしています。
かつて「経済一流政治三流」と言われた様に、それでも社会のどこかは正しく、頑張れば生きていけて、任せておいても未来は開けていく、と思っていました。
が、全てをぶち壊して、再び、混乱、混沌を起こそうとしている者がいる・・・様な気がしてならない。
失ったものが、帰らないのは、日本政府のお約束です。
今回は足を使って回ってみたのですが、皆様も、散歩ついでに、住まわれている身近な所にある「平和の重み」に触れて、感じてみては、いかがでしょうか?
では、また次回の更新まで!